2011GW 2日目 初めてのワーク (5月1日) [ボランティア]
昨日は結局ワークができなかったので、今日は朝からバリバリ働くで!
と気合を入れて起きたのに、教会が拠点なので、日曜日の午前中はミサ。
ワークはお休みでした。
昼からいよいよワーク開始。
僕が今回お世話になってる教会のボランティアは少人数なので、大規模な救援活動からもれてしまっている所へ入り込む、焦らず急がず被災者の方々と共に作業をして、被災者の方々に寄り添ってその悲しみ苦しみのほんの一部でも共有できる活動を目指しているという事でした。
GWで大勢のボランティアがこの石巻にも来ているけど、他団体とは少し違ったスタイルの活動をしているみたいですね。
今日の現場は海から数百mの集落。
残ってる建物も多いけど、いずれも1階部分は壊滅的なダメージを受けていました。
2階まで津波がきたそうです。
とあるアパートの1階の片づけ。
どろどろのヘドロが床に堆積。
部屋に散乱している荷物を搬出して、ヘドロのかき出しです。
ヘドロは津波から50日経った今でも水分をたっぷり含んでいて重たい。
しかも、くさい。
服を捨て、家電を捨て、食器を捨て…
機械作業的にどんどん搬出していくけど、“思い出の品”が時々出てきては思わず手が止まってしまいます。
中学校の大会で石巻で1番になった表彰状。
額縁に入ってました。
日付を見たら平成元年。
どんだけ大事にとってたんだよ…
きっと宝物だったんだよな。
がれきの中にあった小さなこいのぼり。
幼い男の子がいたんでしょうね。
この子は今元気なんでしょうか…
瓦礫、ごみと言っても、震災さえなければ生活の一部だったものばかり。
正直へこみます。
それでも仲間と頑張る時は頑張って、時には馬鹿話をして、1日のワークを終了することができました。
実は今日の現場、ある種の緊張感がありました。
石巻市では今でも行方不明者が2千人以上みえます。
今日の現場は津波が押し寄せて部屋の中に瓦礫とヘドロが山積み状態。
あの日から手つかず。
作業開始前に「もしかしたらご遺体が見つかるかもしれませんので、心構えはしておいてください」との注意がありました。
大きな荷物をどかす時、「もしかしたら…」という恐怖感が脳裏をよぎりながらの作業でした。
でも「もしご遺体が見つかったら、その人が家族の元へ帰るお手伝いをしたんだと思ってください」と言われた一言で、だいぶ心が軽くなりました。
そんな厳しい現場ですけど、明日からもがんばります。
今日も食事は美味しかったです。
2011GWボランティア2日目のアルバムはこちら
2011GW 1日目 石巻市で津波被害を目の当たりにして… (4月30日) [ボランティア]
昼前に石巻駅前に到着。
道路にはヘドロがうっすらと堆積していて、乾いたヘドロが風が吹くたびに土埃となって舞い上がっていました。
潮をかぶった植物は枯れ始めていて茶色く変色していました。
どんより曇っていたこともあって、色を無くしてしまった街に見えました。
ここでボランティア団体のスタッフに電話をして車で迎えに来てもらって、朝から現場で活動(この団体ではボランティア活動のことを「ワーク」と呼んでいました)を開始している他のメンバーに合流することになりました。
駅周辺から5分も車を走らせると周りの風景が一変しました。
津波の直撃を受けてつぶされ、流された家々や車が重なり合い、大通りから一本入った道はいまだに水没状態。
電気がまだ復旧していなく信号が作動していないので、交差点には防塵マスク姿の警察官。
自衛隊の車両があちこち走り回り、上空には編隊を組んだヘリコプターが低空飛行しています。
テレビでは何度も見てきた津波の被害を受けた街の姿。
でも、実際に自分の目で見るとものすごい衝撃で絶句してしまいました。
↓ ガソリンスタンドに民家が突っ込んでしまってます
午前中のワークは援助物資の配布でしたが、僕が到着した時はもう撤収の準備が始まっていました。
↓ 配布会場の建物に船が突っ込んでいました
この日の午後は作業がなかったので、石巻の現状を知るために、日和山という石巻市内が一望できる山へ連れて行ってもらいました。
途中、墓地の横を通りました。
今回の震災で亡くなられた方々のお墓です。
ショベルカーで地面に掘られた穴に並べられて土葬されたそうです。
身元が分からない方々なんでしょうか、番号だけが書かれた木の札がと花束だけがいくつも整然と並んでました。
人の最後としてあまりにも悲しすぎる光景でした。
日和山はまだ桜がきれいに咲いてました。
だけど…
桜の木の間から見える住宅街は津波で破壊されつくされていました。
桜が奇麗な分余計に悲しい気持ちになりました。
山の上では自衛隊員が双眼鏡を使って24時間体制で津波の監視をしてました。
まだまだ緊張感が続く地へやってきたんだと実感しました。
山の上から見た住宅街まで下りてきました。。
またまた絶句。
自然の猛威の前に人間はいかにちっぽけなものか。
テレビでは何度か見ている風景だけど、生で見ると実際に生活で使っていた道具が散乱しているのが見えて、ここが人々の生活の場であったことがひしひしと伝わってくきました。
そしてあちこちに貼られた「捜索済」の張り紙。
ここで多くの方が流されて行方不明になってしまったことがわかります。
これから1週間、この街で生活していくのか…
少しブルーな気持ちに。
そんな気持ちを吹き飛ばしてくれたのがボランティアのみんな。
初めて顔を合わせたのに、まるで昔からの仲間のようにすごく和気あいあい。
夕食もみんなで自炊。
この日はキムチ鍋。
風呂にも入れず、食事は缶詰にご飯中心…
そんな覚悟をしてきたのに、自衛隊風呂にも入って、美味しいご飯も食べれました。
明日からも目に飛び込んでくる光景は悲しいものばかりだろうけど、この仲間と一緒に頑張っていこうと思えました。
自衛隊風呂
川の水を濾過して沸かしています。
幼稚園の講堂で寝泊まりさせてもらいます。
石巻ボランティア1日目(4月30日)終了
この日の写真はオンラインアルバムにアップしてあります。
2011GW 1日目 仙台到着 (4月30日) [ボランティア]
GWは10連休なので、長期休暇を利用して震災ボランティアに行くことにしました。
行き先は石巻市。
初めての宮城県入りです。
今回は仙台と石巻に拠点を置くボランティア団体にお世話になることにしました。
4/29に名古屋を夜行バスで出発して、翌4/30の早朝、仙台に到着。
今回初めての被災地入りなので、バスを降りるときに緊張感がピークに達していました。
連日テレビで見てきた大きな揺れと巨大津波。
この仙台の街はどれだけ被害を受けたんだろう…
駅前に降り立ち周りを見渡すと、仙台駅に補修工事用のシートがかかっている以外は、人も普通に行き交い、一見地震なんかなかったような感じでした。
行き先は石巻市。
初めての宮城県入りです。
今回は仙台と石巻に拠点を置くボランティア団体にお世話になることにしました。
4/29に名古屋を夜行バスで出発して、翌4/30の早朝、仙台に到着。
今回初めての被災地入りなので、バスを降りるときに緊張感がピークに達していました。
連日テレビで見てきた大きな揺れと巨大津波。
この仙台の街はどれだけ被害を受けたんだろう…
駅前に降り立ち周りを見渡すと、仙台駅に補修工事用のシートがかかっている以外は、人も普通に行き交い、一見地震なんかなかったような感じでした。
仙台駅前のアーケード
シートがかけられた仙台駅
しかし、よく見ると地面が波打っていたり、歩道の敷石がずれていたり、ビルの壁面のタイルが剥がれそうになっていて網が被せられていたり、傷痕は確かにありました。
仙台駅にこんな張り紙が。
3/11以外にも4/7日にも大きな地震があったんですね。
駅に貼ってあった張り紙。3月11日・4月7日震災前」の表記
石巻へと進みます。
石巻への交通手段は鉄道が寸断されてしまっているので高速バスのみです。
バス停は長蛇の列ができていました。
バスの中は補助椅子まで利用して満席状態。
仙台まで買い出しに出てきたのでしょうか、大きな荷物を持った人もいました。
まるで難民バスのようだなと感じました。
バスが駅前のオフィス街から住宅街に入ると屋根の上にブルーシートをかぶせた家があちこちに見えました。
バスは更に海の方へと進み、仙台東道路に入りました。
この道路は堤防のように盛り土をした上に道があって周りが良く見渡せるのですが、海側の平野を見ると畑にばらまいたように車が散乱していました。
一気に被災地に来たんだと実感がわいて緊張感が高まりました。
つづく
2011年4月 東北行きを決意 [ボランティア]
大学で名古屋に来てからずっと名古屋に住んでいますが、その前は兵庫県西宮市くに住んでいました。
阪神淡路大震災発生当時は既に名古屋に住んでいましたが、地元のことが気がかりで、数日後には現地に入りました。
自分の育った街の変わり果てた姿を目の当たりにして衝撃を受けましたが、何ができるわけでもなく、1日現地の様子を見て回ってから名古屋に戻ってきました。
その後、多くのボランティアが全国から集まってくれたことを知り、今後 どこかで災害があったときは恩返しをしないといけないと思うようになりました。
ところが、その後実際に災害が起こっても、どこに申し込めばいいのか、何が必要なのか全くわからずにずっとボランティアには行けずにいました。
1度だけ2004年の新潟県中越地震の時は、近所の団体さんがボランティアバスを無料で出すということだったので参加してきました。
この時も実際の復旧作業は現地に長期滞在しているスタッフが行っていて、僕たち短期滞在者は被災された方を一軒一軒訪ねて歩いてニーズを聞いて回り、それを本部に連絡する作業だけでした。
そして今回の東日本大震災。
テレビから連日流れる衝撃の映像を見て、自分にできることがあるんだったら現地にいきたいと思いました。
だけど、今回は被害の規模が大きすぎて、ライフラインは寸断されているし宿泊場所もない状態。
ボランティアの募集情報を見てもテントや自炊ができる装備を持ってこれることが条件になってました。
車を持っていない自分にとってはそれだけの装備を電車に乗って運ぶのは困難。
そんな中、宿泊場所を提供してくれる仙台のボランティア団体を見つけました。
キリスト教の団体でしたが、問合せをしたところ信者でなくても参加させてもらえるとのことでした。
すぐに申し込んでゴールデンウィークに1週間、仙台に行くことになりました。
後日、団体から連絡があって行き先が石巻になりました。
教会に併設された幼稚園で寝泊りをさせてもらってボランティアを行うことになりました。
お世話になることになった団体:日本キリスト教団 東北教区被災者支援センター・エマオ
(HP) http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/entry-10858210299.html
阪神淡路大震災発生当時は既に名古屋に住んでいましたが、地元のことが気がかりで、数日後には現地に入りました。
自分の育った街の変わり果てた姿を目の当たりにして衝撃を受けましたが、何ができるわけでもなく、1日現地の様子を見て回ってから名古屋に戻ってきました。
その後、多くのボランティアが全国から集まってくれたことを知り、今後 どこかで災害があったときは恩返しをしないといけないと思うようになりました。
ところが、その後実際に災害が起こっても、どこに申し込めばいいのか、何が必要なのか全くわからずにずっとボランティアには行けずにいました。
1度だけ2004年の新潟県中越地震の時は、近所の団体さんがボランティアバスを無料で出すということだったので参加してきました。
この時も実際の復旧作業は現地に長期滞在しているスタッフが行っていて、僕たち短期滞在者は被災された方を一軒一軒訪ねて歩いてニーズを聞いて回り、それを本部に連絡する作業だけでした。
そして今回の東日本大震災。
テレビから連日流れる衝撃の映像を見て、自分にできることがあるんだったら現地にいきたいと思いました。
だけど、今回は被害の規模が大きすぎて、ライフラインは寸断されているし宿泊場所もない状態。
ボランティアの募集情報を見てもテントや自炊ができる装備を持ってこれることが条件になってました。
車を持っていない自分にとってはそれだけの装備を電車に乗って運ぶのは困難。
そんな中、宿泊場所を提供してくれる仙台のボランティア団体を見つけました。
キリスト教の団体でしたが、問合せをしたところ信者でなくても参加させてもらえるとのことでした。
すぐに申し込んでゴールデンウィークに1週間、仙台に行くことになりました。
後日、団体から連絡があって行き先が石巻になりました。
教会に併設された幼稚園で寝泊りをさせてもらってボランティアを行うことになりました。
お世話になることになった団体:日本キリスト教団 東北教区被災者支援センター・エマオ
(HP) http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/entry-10858210299.html