2017.10.28 女川の浜の今 [女川]
2017年10月28日(土)
女川中心部から雄勝に至るまでの浜を見てきました。
震災から6年半経った女川の浜の今を紹介したいと思います。
女川湾戦没者慰霊塔
女川漁港から車で出発して最初の目的地、桐ケ崎に向かいました。
途中、女川港を見下ろす高台に「女川湾戦没者慰霊塔」がありました。
天然の良港である女川港には先の大戦中、日本軍の艦船が停留していました。
長崎に原爆が投下された1945年8月9日の早朝からこれらの艦船を狙った連合軍の空襲を受けて、157名の方が戦死されました。
また、攻撃に参加していたカナダ軍の大佐も撃墜され戦死しています。
大佐は大戦でのカナダ人最後の戦死者となりました。
忘れてはいけない歴史です。
桐ケ崎
桐ケ崎漁港の護岸工事は完了していました。
かつて集落があった辺りは建物の基礎だけを残して更地になっています。
浜から少し高台に上がったところに「女川いのちの石碑」が建立されていました。
高台の宅地造成も完了しており、新しい家も建っていました。
竹浦
竹浦ではまだ嵩上げ工事が行われていました。
こちらでも高台に住宅地ができていました。
尾浦
船の数が多くてびっくりしました。
尾浦の湾では牡蠣の養殖が行われているとの事でした。
護岸工事も終了しているようです。
尾浦に建立された「女川いのちの石碑」
尾浦を後にして次の浜、御前浜へ向かいます。
リアス式海岸は山が海まで迫っているので、浜から浜へは峠道となります。
海岸線が美しい。
御前浜が見えてきました。
ん? 何か様子がおかしいぞ?
御前浜
堤防ができている。。。
近くまで行ってみると、かなりの高さでした。
腕を思いっきり上げて写真を撮っても海が見えません。
ここ御前浜は震災前には砂浜があって海水浴場になっていたそうです。
今 砂浜は完全に消滅してしまっていました。
御前浜の工事の案内板。
竹浦など他の浜では「漁港用地の嵩上げ」となっていた工事内容が「水産用地の造成工事」になっています。
御前浜は元々人口が少なく、漁業に従事している人もいなかったとの事でした。
だから、他の浜と違って防波堤を造ったのでしょうか?
防波堤にこだわるにのには理由があります。
東日本大震災で津波の被害を受けたほとんどの自治体が、海岸線に巨大な防波堤を建設する道を選ぶ中、女川町は「海と共に生きる」道を選びました。
女川町が作成したポスター 「わたしたちは海と生きる。」
防波堤は造らない。
海岸近くは漁業関係や水産加工関連の建物だけを造り、住宅地は高台に移転する。
津波が来たら高台に避難する。
女川駅前に新しくできた商店街の真ん中に広い遊歩道が設置されているのも、いざ大地震が起こって津波が再び襲ってきても、大勢の人が一斉に高台に避難できるようにするためだと聞いたことがあります。
元々 巨大な防波堤の建設には否定的な意見を持っていた僕にとって、「海と生きる」女川の選択はとても素敵なことだと思っていました。
だから、女川の浜で、かつての海水浴場だった砂浜をつぶして防波堤が建設されていたとは夢にも思いませんでした。
いろいろと考えさせられる光景でした。
嵩上げの高さも他の浜とは比べ物にならない程 高いものでした。
御前浜の高台に建立された「女川いのちの石碑」
指ケ浜
こちらは他の浜と同じで巨大な防波堤はありませんでした。
ちょっとホッとしました。
女川町の浜巡りはここまで。
石巻市に入りました。
ちょっとだけ足を伸ばして雄勝の様子を見に行きます。
雄勝が近づいてきました。
雄勝湾の対岸に延々と建設された防波堤が見えます。
防波堤の建設現場。
ダンプと比較してもどれだけ巨大かわかります。
御前浜の防波堤でも巨大だと思いましたが、比べ物にならない高さです。
こんなもので海を囲むのかと思うとゾッとします。
浜巡りはここで終了。
女川駅前へ戻りました。
帰りは山を越える林道を通りました。
峠を越えたところで女川湾が一望できました。
いつまでも海と生きる女川町であってくれますように。。。
女川中心部から雄勝に至るまでの浜を見てきました。
震災から6年半経った女川の浜の今を紹介したいと思います。
女川湾戦没者慰霊塔
女川漁港から車で出発して最初の目的地、桐ケ崎に向かいました。
途中、女川港を見下ろす高台に「女川湾戦没者慰霊塔」がありました。
天然の良港である女川港には先の大戦中、日本軍の艦船が停留していました。
長崎に原爆が投下された1945年8月9日の早朝からこれらの艦船を狙った連合軍の空襲を受けて、157名の方が戦死されました。
また、攻撃に参加していたカナダ軍の大佐も撃墜され戦死しています。
大佐は大戦でのカナダ人最後の戦死者となりました。
忘れてはいけない歴史です。
桐ケ崎
桐ケ崎漁港の護岸工事は完了していました。
かつて集落があった辺りは建物の基礎だけを残して更地になっています。
浜から少し高台に上がったところに「女川いのちの石碑」が建立されていました。
高台の宅地造成も完了しており、新しい家も建っていました。
竹浦
竹浦ではまだ嵩上げ工事が行われていました。
こちらでも高台に住宅地ができていました。
尾浦
船の数が多くてびっくりしました。
尾浦の湾では牡蠣の養殖が行われているとの事でした。
護岸工事も終了しているようです。
尾浦に建立された「女川いのちの石碑」
尾浦を後にして次の浜、御前浜へ向かいます。
リアス式海岸は山が海まで迫っているので、浜から浜へは峠道となります。
海岸線が美しい。
御前浜が見えてきました。
ん? 何か様子がおかしいぞ?
御前浜
堤防ができている。。。
近くまで行ってみると、かなりの高さでした。
腕を思いっきり上げて写真を撮っても海が見えません。
ここ御前浜は震災前には砂浜があって海水浴場になっていたそうです。
今 砂浜は完全に消滅してしまっていました。
御前浜の工事の案内板。
竹浦など他の浜では「漁港用地の嵩上げ」となっていた工事内容が「水産用地の造成工事」になっています。
御前浜は元々人口が少なく、漁業に従事している人もいなかったとの事でした。
だから、他の浜と違って防波堤を造ったのでしょうか?
防波堤にこだわるにのには理由があります。
東日本大震災で津波の被害を受けたほとんどの自治体が、海岸線に巨大な防波堤を建設する道を選ぶ中、女川町は「海と共に生きる」道を選びました。
女川町が作成したポスター 「わたしたちは海と生きる。」
防波堤は造らない。
海岸近くは漁業関係や水産加工関連の建物だけを造り、住宅地は高台に移転する。
津波が来たら高台に避難する。
女川駅前に新しくできた商店街の真ん中に広い遊歩道が設置されているのも、いざ大地震が起こって津波が再び襲ってきても、大勢の人が一斉に高台に避難できるようにするためだと聞いたことがあります。
元々 巨大な防波堤の建設には否定的な意見を持っていた僕にとって、「海と生きる」女川の選択はとても素敵なことだと思っていました。
だから、女川の浜で、かつての海水浴場だった砂浜をつぶして防波堤が建設されていたとは夢にも思いませんでした。
いろいろと考えさせられる光景でした。
嵩上げの高さも他の浜とは比べ物にならない程 高いものでした。
御前浜の高台に建立された「女川いのちの石碑」
指ケ浜
こちらは他の浜と同じで巨大な防波堤はありませんでした。
ちょっとホッとしました。
女川町の浜巡りはここまで。
石巻市に入りました。
ちょっとだけ足を伸ばして雄勝の様子を見に行きます。
雄勝が近づいてきました。
雄勝湾の対岸に延々と建設された防波堤が見えます。
防波堤の建設現場。
ダンプと比較してもどれだけ巨大かわかります。
御前浜の防波堤でも巨大だと思いましたが、比べ物にならない高さです。
こんなもので海を囲むのかと思うとゾッとします。
浜巡りはここで終了。
女川駅前へ戻りました。
帰りは山を越える林道を通りました。
峠を越えたところで女川湾が一望できました。
いつまでも海と生きる女川町であってくれますように。。。
2017-10-28 14:00
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